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運動誘発アナフィラキシーとの出会い

[2025.06.10]

以下のエッセイは、かつてあるアレルギー専門誌に寄稿した文章をもとに、一部を修正したものです。院長土肥の、運動誘発アナフィラキシーとの出会いとかかわり、医師としての研究歴についても触れています。

運動誘発アナフィラキシーとの出会い

渋谷内科・呼吸器アレルギークリニック/呼吸免疫研究所
土肥 眞

運動誘発アナフィラキシー(Exercise-induced anaphylaxis: EIAn) とは、運動を契機に、蕁麻疹、呼吸困難、消化器症状などの症状が出現し、重篤な場合には血圧低下、意識障害などのアナフィラキシーショックに到る疾患の総称である。わが国では、その半数近くが、特定の食物の摂取あるいは食事をすること自体と運動との組み合わせによって発症することが知られており、食物依存性運動誘発アナフィラキシー(Food-dependent exercise-induced anaphylaxis: FDEIAn) と呼ばれている。当初は食餌依存性と呼ばれていたが、現在では食物依存性と呼ぶのが一般的である。

今日では、この疾患概念は広く知られるようになり、内科専門医の試験問題にも出題されることがある。筆者はこれまで、比較的多くの症例を診療する機会に恵まれたが、本稿では、その第一例目との出会いについて述べる。その当時の思い出にも触れるので、いささか脱線する箇所もあるが、ご容赦頂ければ幸いである。

あの日、宿舎から病院へ向かう道から見上げたのは、雲ひとつない五月晴れの空であった。当時、2年目の内科系研修医として国立病院医療センター(現:国立国際医療研究センター病院)に勤務していた私は、内科当直医として、連休の中日、休日の当直勤務に従事しようとしていた。

当時は、卒後2年目の「研修医」が内科全科の当直責任者として勤務する体制であった。研修医制度が整備された今から考えれば、800床以上ある大病院の内科の当直責任者が、書類上はおそらく異なっていたにせよ、実質的には卒後2年目の研修医というのは考えられないことであるが、事実として当時はそうであった。現在でこそ、研修医のマッチングでもつねに1,2位を争う超一流の教育病院となっているようであるが、私が在籍していたころの医療センターはまだ、旧陸軍病院の面影が残っていて、職員にもおおらかな人が多かった。例えば、某科のレジデントに酒乱のDr.がいて、病院の廊下の鉢植えの木を全部なぎ倒した時、教育担当の外科の医長先生から「元気があって宜しい。」とお褒めの言葉をもらっていた。この人には私も有り難いことに何故か気に入れられ、皆で飲みに行くと、その人にとっては親密さの表現であったのだが、何度もいきなり後ろから、怪しい文言を呟きながら首を絞められた思い出がある。一度この人と深夜の若松通りの路上で取っ組み合いをして、あまりにしつこいので逃げようとした時に右足を滑らせ、以来正座が苦手となった。また、某外科系の若手医長は、これも飲んだ帰り道、ふと若松通りに駐車してあった車を見かけるや、おそらくは科学者としての純粋な好奇心から、やおら屋根に上がり、車体を解剖しようとしていたのを咎められて、そのまま警察に連れられて行ったという。

かくいう私も、内分泌代謝科をローテートしていた時に、ICUに入室した糖尿病の昏睡患者を診療するために、室内の空きベッドに居つき、教科書・着替えなど一式を持ち込み、そこに寝泊りして診療し、そこから一般病室に通い、時には酔っぱらって帰室して騒ぎ、1週間近く過ごしたことがあった。今思うと、どうしてそんなことが許されたのかわからない。ちなみに、その患者さんは、無事回復してICUから退出された。

話をあの日に戻す。休日当直の場合、午前8時半の引き継ぎ後の最初の業務は、内科の当直医と研修医当直の医師1名とで、7階から16階までに分散している内科入院病棟を二つに分け、点滴をして回る点滴当番で、早くても1時間、手間がかかれば2時間近くにも及ぶこともあった。これも、留置針が普及した現在では考えられないことである。日常業務でも点滴は常時しており、おかげで点滴は上手くなり、その後随分助かっている。

さて、点滴が一段落して一息ついているところへ、タイミングを見計らったかのようにポケットベルが鳴った。急患室からである。緊張しながら電話を入れると、中年の男性が意識消失で運ばれてきたので、すぐに来てほしいとのことである。えらいことだと、長い外来待合の廊下を走って駆けつけると、ベッドの上に確かに中年の男性が横たわり、呼びかけに反応しない。触診で血圧が60mmHgくらいであった。ただ、当時の私が驚いたのは、ショックといえば反応性に末梢血管が収縮し、皮膚が蒼白になっているかと思いきや、体幹部、四肢に広範に蕁麻疹が生じ、全身の皮膚が赤く輝いていたことであった。型どおりに点滴路を確保し、ステロイドと抗ヒスタミン薬を投与したところ、その患者さんはみる間に回復し、ほんの15分ほどで起きがってしゃべれるようになった。私はその時、ショック患者を診た場合の通例として、できれば入院させるか、あるいは少なくとも数時間は経過観察を続けるべきと考えたのだが、彼はやおらベッドから立ち上がり、すたすたと歩き始めた。状況を説明してとどまるように説得するのを振り切り、結局そのまま帰宅してしまったのだが、帰り際、急患室の出口から振り返り、私に向ってこう言った。
「いや、私はね、これまでにも卵を食べたり、ウール生地のものを着たり、運動をしていると、蕁麻疹が出てきて頭がボーとすることがあったのですが、今朝は、朝食に卵を食べ、その後にウール地のウエアを着てテニスをしていたら急におかしくなってしまいました。はい、さようなら。」
これまで知っていた常識を超えた不思議な病態があるものだという思いと共に、この言葉がスフィンクスの謎かけのように私の脳裏の片隅に残った。

その後、私は呼吸器科のレジデントとなり、加部順三郎先生の下で呼吸器内科医としての修業を開始した。当時の(おそらく今でも?)呼吸器内科医の醍醐味は、貴重な、あるいは興味深い症例を経験し、その胸部画像資料を保持・蓄積することであった。可部先生も、その長大な経験から膨大な画像データを持っておられ、それを北13階の空き部屋のファイルボックスに大事に保管されていた。「可部先生は昼食を摂らずに、レントゲン写真を見ているらしい。霞を食べて生きている仙人なのか」という噂が流れていたが、私どもレジデントに、機会を見てはそれを見せ、質問を投げかけながら解説して下さった。こうしてレジデントとして1年近くを過ごす間に、様々の症例を経験させて頂いた。そうした患者さんの診療を通して、次第に基礎研究の重要性に思い至るようになり、東京大学の大学院に進学し、内科物理療法学教室(物療内科:以下物内と略記)に入局させて頂くことになった。

物内での最初の仕事は、気道過敏性の成立機序の研究であった。ともにダニ抗原に感作されているアトピー性皮膚炎と気管支喘息の患者に、ダニ抗原抽出液を用いて吸入誘発試験を行い、両疾患の気道の反応性を比較検討する検討で、奥平博一先生の指導を受けながら実施した。比較的面白い結果が得られ、論文作成の準備をしていた。須甲松信先生が、出張先の相模原病院から帰局されたのは、丁度その頃であった。

ある時、研究室で茶を飲みながら雑談をしていた時、須甲先生が「運動をしているとアナフィラキシーショックを起こしてしまう病気があり、今アメリカで注目されている。」と語りはじめ、詳細を話してくださった。その瞬間私には、医療センターで診た症例の記憶が蘇り、「私もそういう例を見たことがあります。」と答えた。この病態は当時、日本ではまだ小児で数例が報告されているのみであり、成人症例の実態は不明であった。では、日本の成人でそういう症例があるか検討しようということになり、須甲先生と二人で検討を始めた。須甲先生が外来で疑わしい患者さんを探し出しては、トレッドミル試験で運動負荷をかけ、前後にパンなどの疑わしい食物を食べて頂き、継時的に血中のヒスタミンを測定した。途中から、都立駒込病院への出張から帰局した杉山温人先生(後に国立国際医療研究センター病院呼吸器科科長、病院長)も加わってくださり、症例を少しずつ積み重ねていった。こうして11例ほど経験した症例をまとめて、わが国で最初の成人症例として、米国アレルギー学会雑誌に発表したのは1990年であった¹)。

大学院修了後、私は日本学術振興会の特別研究員に採用され、山本一彦先生(前、東大アレルギーリウマチ内科教授)の下で2年間「T細胞抗原受容体可変領域の発現の多様性」なるテーマに取り組んだ²)。それから1年間の病棟勤務を経て米国に留学し、メイヨークリニック・スコッツデール、ユタ大学で肺線維症の研究に取り組んだ³)。杉山先生や私が米国に留学している間も、須甲先生は症例を蓄積しながら疾患概念の普及に尽力され、本病態は徐々にアレルギーの専門医の間で認知されるようになった。研究に携わる専門医の数も増え、特に皮膚科の研究者の方々の尽力により、例えば小麦抗原におけるω5-グリアジン、グルテンのように、病態に本質的にかかわるエピトープが明らかにされ、診断の向上に貢献している。

その後、須甲先生は保健管理センター教授として東京芸術大学に移られた。 杉山先生は、国立国際医療研究センターの呼吸器科医長を経て、院長となられた。一方私は、帰国した後も大学に在籍し、大学院医学系研究科講師、東大病院アレルギー・リウマチ内科副科長(病棟・外来医長)として勤務し、患者の診療、学生教育、大学院生を指導しての研究活動に多忙な日々を過ごした。その間、自分の外来にもぽつぽつとFDEIAnの紹介患者が訪れるようになり、経験した症例は40名以上になった。

2013年、私は東大病院を辞し、渋谷に呼吸器・アレルギー専門のクリニックを開設・独立し現在に至っている。良く言えば組織に属さない自由人であるが、当然のことながら、実はそれほど自由ではない。頼るものがいない無頼の徒である。当初、もうこの病気を診ることもないだろうと思っていたが、開設にあたり立ち上げたホームページに載せた本疾患の解説を見て受診される方が意外に多い。現在までに、クリニックでEIAn/FDEIAnと診断した症例はすでに200例近くになり、東大時代をはるかに上回ってしまった。これは、この疾患が社会的にも少しずつ認知されて来たことを反映していると思われる。勿論、大学レベルや専門病院で行われているような、皮膚テスト、トレッドミル検査、抗原解析まで含めての詳細な検討は望むべくもないが、それなりの臨床経験に基づいて診療してはいるので、それほど間違ったことはしていないという思いはある。

このように、(FD)EIAnは、研修医時代から現在まで、予想外にも、医師としての人生を通じて身近にあり続けた疾患であり、その診療を通じて、多くの先輩と出会うことが出来た。医師としてのキャリアを閉じる時まで、一人でも多くの患者さんの手助けとなれれば喜びである。そのためにも、今後も研究レベルでの成果を学び、臨床に生かしてゆけることを期待している。現役の研究者の方々の一層のご活躍・ご発展に期待したい。
 今でもふと、あの日見上げた五月晴れの空を、もう一度見たいと思うことがある。

参考文献

  1. Dohi M, Suko M, Sugiyama H, et al. Food-dependent, exercise-induced anaphylaxis: A study on 11 Japanese cases. J Allergy Clin Immunol 87:34, 1990.
  2. Dohi M, Yamamoto K, Masuko K, et al. Accumulation of multiple T cell clonotypes in lungs of healthy individuals and patients with pulmonary sarcoidosis. J Immunol 152:1983, 1994.
  3. Dohi M, Hasegawa T, Yamamoto K, et al. Hepatocyte growth factor attenuates collagen accumulation in a murine model of pulmonary fibrosis. Am J Respir Crit Care Med 162; 2302, 2000.

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